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ヤコブ像と三人
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スペイン巡礼の道は子どもと一緒に歩くことが出来ます。英語もスペイン語もダメな母は、二人の子どもの知恵と勘を頼りに歩いた2か月、930km。毎日が驚き、感激、悩み、ケンカの連続。記事を読んで笑えたり、旅気分を味わってもらえたら嬉しい!と思いながら作るサイトです。Kumi3の絵本作品、他の子連れ旅も掲載していきます。
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サイトのキーワード

 

サイトの紹介として、キーワードを並べてみました。

#サンティアゴ巡礼=カミーノ #スペインを歩いて横断する旅  #フランスからの道 #サンティアゴ大聖堂まで800㎞ #大西洋まで930km #寝袋背負って一日に20㎞前後を歩く #3ヵ月学校を休む #母と2人の子連れ #15歳女子・中三 #10歳男子・小五 #ガイドブック、スマートフォン無し

そんな大それた旅を引率する私の英語力は中学1、2年生レベル、スペイン語はゼロ!です。また、ガイドブックやスマートフォンも無しで二人子どもを連れて歩くなんて「あんた正気?」と聞かれてもおかしくありません。まるで14世紀の巡礼者と同様なのですから。

しかし、何も狙ってそうした訳ではありません。アクシデントが重なり、思いも寄らずそんなスタイルになってしまったのです。

 

 

カミーノ(スペイン巡礼、サンティアゴ巡礼)の云われ

 

カミーノ(スペイン巡礼、サンティアゴ巡礼とも言います。)を歩く人々の間で、こんな云われがありました。

「必要なものは現れ、不要なものは去る…。」または「願えば叶う。」といったものでした。

これは「物」はもちろんのこと「考え」も含まれています。必要なアイデアが浮かび、その一方で「絶対!」といった思い込みが無くなってしまうのです

また、面白いのは、カミーノを歩きに来ること自体が、その人にとって必要だったために「カミーノに呼び寄せられた」というものです。

出会った巡礼者たちは国籍、性別、年齢もまちまちですが、よく挨拶がわりに「へい!お前もカミーノに呼ばれたのかい?」とジョークを飛ばすようでした。

それはカミーノを擬人化したような言い方でした。まるで逆らえないボスのような…。

 

カミーノに呼ばれた3つの理由

 

私たちも、どうやらそんなボス、カミーノに呼ばれてしまったようです。それはどうしてなのかしら…?と考えてみました。

 

カミーノに呼ばれた3つの理由

 

カミーノに呼ばれる心当たりがあるとすれば…3つの理由が考えられます。

1つ目

1つ目は、娘が中学校へ行けなくなってきたことがきっかけでした。

「不登校で家にいるならカミーノを歩いてみない?」そのアイデアでスペインまで来てしまいました。

カミーノを歩いた後、娘の学校に対する目線が変わり、今まで気にしていたことが、気にならなくなりました。登校しても頭痛、腰痛が出なくなりました。カミーノは助けてくれました。

さらに言えば、カミーノは子どもに歩いて欲しかったのだと思います。

子どもはカミーノに何の先入観や期待もなく、無駄なことや遊ぶことを得意とする存在でした。

もう、私たちの巡礼は道草だらけでした。大人が気が付かない彼らの目線で感じた巡礼をボス・カミーノは見てみたかったのだと思います。

 

2つ目

2つ目は、私が宗教的な縛りがないフリーな存在だということです。また、以前にも子連れバックパック旅の経験があり「なんとかなるさ感覚」が強い人だということです。

 

3つ目

3つ目は、私が旅のメモ魔だということです。子どもたちは大人とは違うカミーノの取り組み方をしていました。

面白い事、変なこと、お菓子、公園、犬、、、感じたままに行動し、時には臆病に、時には大胆に振る舞います。

自然の恵みや脅威、たくさんの人に助けられ、様々な国の人々と出会い別れを経験し、たくましく成長していく姿を目の当たりにしました。

しかし、残念ながら、帰国後に始まる日本の目まぐるしい生活に戻ると、そのほとんどを忘れてしまいます。それは過去の子連れ旅で分かっていました。

それがもったいなくて、私は旅に出ると、こと細かく日誌を書いて残すようになっていました。

 

カミーノ、アジア旅日誌

これらのことがボス・カミーノに呼ばれた理由ではないかと考えられます。

 

数多くの不思議な出来事

 

そんな私たちが呼ばれたカミーノは、理屈では説明できない不思議な出来事が数多く起こりました。

例えば、こんなことがありました。カミーノの初日に無くしたガイドブックは、なんと道の途中でその著者に出会い、巡礼仲間から、最終日に失くしたものと同じガイドブックを貰いました。

あたかもカミーノに「あなたたちはガイドブック無しで自分たちのカンを頼りに歩いてごらんなさい。最後に返してあげるから。」とでも言われたようです。

さらにスマホも使えなかったためGPSも無く、宿の予約もせず、全行程を黄色い矢印の導きと、お天気と、自分たちの勘と、自然の中に示された「しるし」に極力注意して歩く必要がありました。

ある時、二股の道で迷ってしまいました。うまく黄色矢印が見つかりません。迷った挙句、右の道にしようと歩き出したところ、10m程行くと猫の死骸がありました。「ぎょえっ!」と三人は驚いて飛び上がり、やっぱり左の道に行こう…。と進路を変えました。そして、それが正しかったのです。

他にも、靴が欲しいと願えば靴が現れ、オムレツが食べたいと願えば卵とフライパンが用意されていました。(これらのエピソードは日々の記事にあげていきます。)

カミーノはそんな不思議な事が起きる道なのです。

「思い悩まなくても大丈夫!必ず何ものかが、あなたを助けようとしているんだよ!」カミーノはそんなメッセージを実際に形にして私たちに示してくれました。

因みに、この2010年のカミーノに行かなかった長女は2015年、またお父さんは2017年にそれぞれカミーノ・フランスの道を一人で歩く事になります。私は100km弱を、その都度一緒に歩いたので、計3回カミーノの地に降り立ちました。

行く度にカミーノの道が洗練されいくのを感じました。バルやアルベルゲで、Wi-Fiを繋ぎスマートフォンを操作している多くの巡礼者を目にしました。多分それだと、自分の勘や自然の中の「しるし」に気が付くことが難しくなるな…と感じました。

でも、現代のカミーノはそれがスタンダードです。また安全面からもそうするべきだと思います。

 

428矢印

 

 

ブログでカミーノが完結する

 

あの時のカミーノ(2010年2人子連れ)は、私たちに実験をさせたかったのかもしれません。ガイドブックやスマホが使えなくなり、無防備になって歩く私たちは目いっぱいアンテナが立っている状態です。特に子どもの感受性は強いものです。

「カミーノの声や力をたっぷりと見せてあげよう、君たち気が付いてくれるかい?」ボス・カミーノはいろんな奇跡をサービスしてくれたのかもしれません。

そして、それら沢山のエピソードを10年ほど寝かせた今、私がブログに書き出していくところまで、カミーノは予測しプログラムしていたような気がします。

2010年当時、帰ってきてからすぐに写真と日誌を整理しようと試しみてきました。仕事と子育て真っ只中に戻り、その合間にアルバム本を作りました。それは簡単なエピソードを載せるのが精一杯でした。

子育てもひと段落し、当時のノートをゆっくりと読み直してみる時間ができました。すると、エピソードの中の隠れた意味に、新たに気付かされ、今更ながらに驚いたことが沢山ありました。

その後、大人とカミーノを歩く機会に恵まれました。(上のお姉ちゃんと2015年、お父さんと2017年、カミーノをそれぞれ100km同行)それは、子どもと歩くカミーノとは別物でした。とにかく効率がいいのです。ほぼ一日を予定どうりに進むことができるのです。

子どもを連れて歩いたカミーノは、カミーノの中でも相当珍しい事なんだナと改めて感じました。

そして、一生懸命で、愉快で、ちょっと哲学なエピソードの数々を、ノートの中に埋もれたままにしておくのは、もったいない!と思いました。それらをブログにあげるまで、まだ私のカミーノは終わっていないのです。

また私は、ブログを書くことで再びカミーノを味わい楽しんでいます!

カミーノの後、巡礼仲間の住む地中海のメノルカ島、モロッコのサハラ砂漠、フランスのゴルナブルに寄り道をして帰国しました。それも、出会いと巡り合わせで展開した旅でした。

それらの記事はカミーノの後に、あげていく予定です。

 

 
伝砂漠

カミーノの後、サハラ砂漠へ。

    
 
 

追加:Kumi3ワールドへようこそ!

 

付け加えます。私はもの作りが大好きです。陶芸や鍼灸マッサージの仕事、家事、子育て、介護、その合間にアジアの子連れバックパックの旅に出たり絵本を作ってみたり…などの活動をしてきました。そんな記事や作品もあげていきます。

Kumi3ワールドへようこそ!なんてね !(^^)!

学校ぎらいのスキッパー、たまごストーリー、たまごレシピ

【読み聞かせ動画】がっこうぎらいのスキッパー

 

 

陶芸絵本ジャガイモ芽かき

陶人形

 

 

更なるプロフィール:子連れバックパッカーができるまで(長いです。時間のある人は読んでください)

 

 

実はカミーノに行く以前、バリ島タイ、マレーシア、フィジーなど母の子連れバックパックで1、2ヶ月間、小学校を休んで行く旅2、3年に一度の間隔で続けていました。特に我が家は裕福なわけではありません。ただ、田舎がないので帰省する費用の出費が無いということや、月に1万円づつぐらい貯金をしていけば、アジアの旅なら行くことが可能なのです。

 
その旅のコンセプトは日本がとても恵まれていることを知ってもらいたいと同時に五感が息づく感覚を体験するというものでした。具体的にはなったの国の人々の日常に、出来るだけ近い暮らしをしてみる!というものでした。
 
旅はそもそも不便なものですが、さらに電気がない車がない、けれどそのおかげで美しい自然や海が残っているところを目指しました。
 
何故、小学校を休んでまでも、子どもとそんな旅に行くのか。そのキッカケになったもの凄く大変な旅」がありました。
 
 

旅の新境地を知った!子連れバリ島新婚旅行。

 
長女が1歳半の頃、お父さんの仕事がひと段落したので、先延ばしにしていた新婚旅行に出掛けました。バリ島へ12日間です。この旅は、驚くほどの事件と気付き⁈が満載の旅でした。
 
 

お金がない!

 
まず、私が初日の空港でトラベラーズチェックで持っていったお金、全額を落としてしまいました。
 
娘のオムツを替え、あれこれティッシュや何かを出した後、ウエストバックのチャックが開いたままだったのです。気が付いた時に中は空っぽになっていました。(落としたのかスられたのかは不明…。)宿の出迎えの車の座席で気がつきました。
 
「無いッ、無いッ、ほんとに無~いッ!!!!!」車はそのまま警察署へ直行です。
 
バリ人の警察官と一緒に、その時の状況などを説明しながら盗難届を作成しました。インドネシア語の警官と片言英語の私たちは、うまく意味が伝わらず、身振り手振りゼスチャーで調書は2時間半ほど掛かりました。その間、娘はずっと泣きっぱなしでした。私もどれほど泣きたかったことか…。
 
何とか書類手続きを済ませ、トラベラーズチェックが再発行されるまで、10日間ぐらいかかるとのことでした。
 
もしもの時の為にと、靴の中に隠し持っていた1万円がありました。それを両替し、とりあえず屋台でナシゴレン(チャーハン)を食べていけば、10日間なんとか乗り切れるか…と、少し明るい気持ちになりました。
 
 
 

目が見えない…。

 
そして事件は続きます。お父さんは強い近眼です。メガネがないと生活ができません。
 
その日の夕方、お父さんの「アーッ!」という悲鳴が聞こえました。その大事な眼鏡を、タイルの床に落とし、レンズの片方が割れクモの巣状のヒビが入ってしまいました。
 
片目だけ見えるということで、片方ヒビ割れた眼鏡をずっとかけています。
「ぁあ〜!貧乏くさい、、。けれど仕方がない.…。」そうやって過ごす他ありませんでした。
 
 

歯がない…。

 
2日目、宿のスタッフが私に大きな乾燥バナナのお煎餅を分けてくれました。
 
うれしい〜!硬いものが大好きな私は「カリッ!」っとかじった瞬間「ポキッ!」と妙な音がしました。
ええっ⁈ 前歯が折れていました。
 
正面から2本目の歯。笑うと目立つところです…。うそでしょ、前歯がない…。何をしても間抜けな自分の顔に、また泣きたくなりました…。というか泣きました。
 
 

時間がわからない…。

 
けれど海なら無料!いつでもウェルカムです。1歳半の娘が、波とたわむれ、はしゃぐ姿を見ていると、いろんな事件のことは忘れてしまいます。
 
水遊びをした後、腕時計をみると「あれっ?」 いつまでもお昼過ぎ。
 
私の腕時計はダイバーウォッチで、防水は完璧なはず、、、電池も少し前に替えたばかりなのに、、、何故?どうして?…。すっかり動かなくなってしまったのです。
 
その時から時間がわからなくなりました。
 
 

服がない…。

 
着替えは、バリで服を買って着るつもりでした。そのため捨てるつもりのクビが伸びたTシャツや、シミだらけの子ども服しか持ってきていませんでした。
 
私たちは着替えが無いのでした。
 
当時、1990年前半の頃のバリは、日本人観光客に、客引きが執拗にまとわりついてくると問題になっていた時期でした。ところが、私たちが町を歩いていても、全く物売りの人が寄ってきません。
そりゃそうです。眼鏡にヒビの男、歯のない女、全体に服もくたびれていて、幼い子もシミのついた服を着ています…。
 
何も買ってくれそうにないのです。実際には買えないけれど、時には買えなくても見たいアクセサリーなどがあるものです。
 
観光客とみると、ケースを見せ回っている物売りの人がいました。次は私の番かなとワクワクして待っていましたが、スルーされました。(泣)
 
私の方から物売りの人を追いかけて「ちょっと見せてください!」お願いするようでした。
 
 
イラストバリ、歯が目がない
 
 

ピンチの私たち、助けてくれたバリの人々

 
そんな悲惨な旅を無事に終えられたのは、宿の若夫婦やスタッフが、親身になって助けてくれたお陰でした。
 
バリ人だけの安い市場に、こっそり連れて行ってくれたり、彼らのご飯を分けてくれたり、私もお返しに日本の料理を作ったり、家族の子どもたちと娘を遊ばせてもらったり。
 
 
 
バリの家族集合

バリ島のみなさん。

まるで親戚の家にホームスティをしているようでした。

私たちは、ガイドブックで調べてきた観光スポットへ行くお金はありません。日々、海と散歩、宿のちょっとしたお手伝いをして過ごしました。いわば、そこで生活をしていたのです。
 
その土地の自然、食事、生活スタイル全て受け入れ、同化して過ごしました。(まあ、文無しのノーチョイスでしたからね。)
 
帰る2日前にトラベラーズチェックが再発行されました。着替えを買い、レストランでご飯を食べ、眼鏡を作り、宿代を支払い、無事に帰国することができました。
 
 

文無し旅がもたらした、五感が活きづく体験

 
 
体験した現地の人々の暮らしは、お世辞にも快適とはいえませんでした。いつ復活するか分からない停電断水。羽が付いたままさばく鶏の肉物売りの子どもたち、野良犬の群れ、油断するとすぐにお菓子や果物にたかるアリの行列…。何かが爆発したのかと思うくらい爆音の雷、床中がびしょ濡れの雨漏り…。
 
なんだか大変だなあと思う反面…。
 
毎朝、道を掃き清め、捧げ物の花やお線香をそこかしこに据えて祈る姿…。
 
昔から変わらず、頭に重たい荷物を載せ、背筋を伸ばしバランス良く歩く凛々しい姿…。
 
たった今、物売りをしていた少年が、駄菓子屋で飛行機のおもちゃを買い、友だちとゲラゲラ笑いながら駆け回り遊ぶ逞しい姿…。
 
夕暮れ時、沢山の大人や子どもたちが仕事の手を休め、ビーチに集まってきました。海に入って泳ぐことはせず、赤く染まった空を眺め、おしゃべりしたり跳ねまわったりし、陽が沈むと、また持ち場へと帰っていきました。
 
私たちも彼らに紛れ夕陽を全身に浴びに、そして沈む太陽を見届けるため、ビーチへ足を運びました。
 
うまく言えないけれど、日本から来た私たちから見ると、ものを持っていなくても、清潔や正確さがなっちゃいなくても、人が本来持っている「祈り」「生命力」を感じました。
 
そして、夕焼けを見つめる時間を持つような地球とつながっている暮らしを感じました。それはなんだか素敵だな…と。
 
 
 

なんて心豊かな旅だったのだろう。

 
帰国後、歯の治療を受けながら、その感覚を再認識しました。あんな貧乏暮しで大変なことの連続だった旅は、実はなんて心豊かな旅だったのだろう…と。
 
子どもはまだ小さかったけれど、何しろ大人の私たちですら、バリの地元生活の中で
 
屋台のナシゴレンチャーハンをべ、肘から汁が垂れるほどバクバクとマンゴーにりつき
鮮やかなセレモニーの衣装をにしては、感嘆のをあげ、青や黄色の魚、真っ赤な夕焼けを
どこかから聞こえてくるガムランの、屋台の呼び声を
ガラナのタバコのい、木に咲く白い花の香りを
バナナの葉に包まれたお菓子の紐をくるくるとでほどき、裸足で砂浜を歩き…
 
五感がメキメキと息づく体験に満ちあふれていました。
 
そしてなによりも、この文無しの旅は、海外旅行ならではの、あれを見よう、ここに行かなきゃ〜という、せっかく来たのだから…という観光欲がありませんでした。ゆっくりと過ぎていく時間の中で、居場所を楽しみながら、生活を楽しみ、家族との時間をたっぷり取ることができました。
 
結果、現地の人との触れ合いや、異文化生活の中で起きた印象深いエピソードなどを、たくさんお土産に持って帰ることになりました。それは私の中で、今までの海外旅行の概念を塗り替えた旅の新境地と出合ったと言える大事件でした。
 
 

日本の常識は世界に通用しないということ。

 
日本の快適さは抜群です。停電はないし、断水もありません。蛇口をひねればお湯が出ます。鶏肉は切ってパックに入っています。物売りの子どもなんて居たら、警察や児童相談所に連絡され、直ぐに保護されるでしょう。
 
3分の電車の遅れをアナウンスしてくれる、公園のトイレがきれいでトイレットペーパーが付いている、お財布を落としても警察に届いている、清潔、利便性、効率化、守られた秩序…それらを実感できる、そんな国、日本です。
 
それは世界の中で考えたらごく一部の場所と考えて間違いありません。
そんな日本の当たり前の生活を、疑いなく育つ子どもたちをみて
 
「ねぇねぇ、日本の常識が世界に通用すると思っちゃいけないよ。
 
バリ島で目の当たりにしたあれこれが私の脳裏に焼き付いていて、ついつい、そんなお説教じみたことを言ってしまうのです。そう口にしても、子どもたちは全くピンと来ません。そりゃそうです。大人の私だって、あの大変な旅の経験がなければ、テレビや本で見かけたぐらいの印象しかないでしょうから。
 
そこで、実際に子どもたちに、日本がとても恵まれていることを知ってもらいたいと同時に、地球とつながっている暮らし、五感が息づく感覚を体験させたい!と思うようになりました。
 
異国の違った言葉、異なった文化の中では、思うようにいかない事が沢山出てきます。それらを乗り切るためには自分の持っている感覚をフル回転させて解決にあたります。日本での恵まれた暮らしの中から、いっとき、そういう状況に身を置くチャレンジを一緒にしてみようと考えたのでした。
 
まずは、身近なアジアでその「不便な旅」をプロデュースしてみることにしました。
 
そして、行った先で見るもの食べるもの、面白ーい!という感覚でいられる旅行者から、その土地の水に慣れ、少し飽きてきて、もっとここはどうなっているのか、どうしたら居やすくなるのかと考える生活者へと、少しでも感覚をシフトするためには1カ月ぐらいは滞在してみたい…と考えました。
 
それは費用的にも、なんとか可能でした。アジアの旅の宿泊費は、日本の宿と比較すると驚くほどリーズナブルでした。ホテル、ゲストハウスの個室でも、シャワー共同、エアコンではなくてファン付きの部屋(扇風機)などを選べば、たいてい一部屋1000円でおつりが来ました。これは全員の宿泊費です。(2000年当時)
 
 
 

旅に行ける子ども時代はとても短い。

 
大人は仕事、家事、子育て、、とにかく忙しい毎日を送っています。子どもですら、学校、塾、宿題、習い事、ゲーム、、、何かとやることがいっぱいです。その日の夕焼けなんて気にするどころではありません。一度、組み込まれてしまった日々のスケジュールから抜け出すことは、とても難しいことです。
 
けれど子どもが真の子どもである時代は、とても短いのです。
 
カミーノに行ったChaiは、中3になってから、カミーノ+夏休みで5カ月間、中学校を休みましたが、これはそもそも 不登校で家にくすぶっているなら「旅に出よう!  学校だけが全てじゃないさ! 」というコンセプトからでした。
 
そうでなければ、中学生で学校を休んで旅に行くことは、学校行事、試験や部活など、本人も大きな負担と抵抗を感じてしまい難しくなります。
 
一方で、小学校は多様な経験をするという事にとても寛容でした。
子どもたちは、不便な旅に行くため、夏休み、春休みを絡めても、学校を休むことが必要になりました。それを小学校へ伝えると「旅から帰った後、その国の写真と一緒に文化紹介をしてくださいね。」と、たいてい、そういった流れになりOKでした。
 
こんなことから小学生までの間が子連れ旅の旬だと気が付きました。勉強の遅れも小学生なら、なんとか追いつきます。
 
そして何より、子どもと一緒に旅に出るならば、学校の問題はもちろんですが、早めの決断をする必要がありました。あれこれ心配をし始めると、出掛けられなくなってしまうのです。何度も言いますが子ども時代は短く、あっという間に過ぎてしまいます。気が付くと子連れバックパッカーの旬が過ぎてしまいます。行くと決めたら鉄板の心であたりました。
 
カミーノに行った時、Denは10歳でした。見た目にも明らかに子どもなので、たくさんの国の人々が、毎日そこかしこで、遊んでくれ構ってくれました。Chaiのように中学生ぐらいの子どもと大人の中間になってくると、旅先で話し掛けてくる率がDenと比べると格段に減りました。相手も気を遣うのでしょうね。
 
私は旅に行く度に転職するという方法をとりました。これでは自分の仕事のキャリアを育てにくいがのですが、仕方がありません…。フランスやオランダのようにバカンスが5週間あれば別ですが、日本では難しいことです。旅に行くために…と割り切った選択でした。
 
その代わり、お父さんには定職で支えてもらいました。家計が転覆してしまいますからね。そこで母と子で行く「子連れバックパッカーの旅」の下地が出来上がった訳です。
 
 
 
 

そこまでして行く子連れ旅、もう一つの出来ごと。

 
私が最初の子を産んだ一週間後、突然、母が急逝しました。60歳になったばかりでした。
 
心臓の既往歴があった母でした。亡くなる直前までとても元気で「初めての娘の孫!」ということで、サラシでおしめ40枚をミシンで縫い「産湯は私が入れるわ!」と準備万端、やる気満々でした。
 
病院の新生児室にあんなに喜んで来てくれていたのに。退院した時には、もう会えませんでした。それだけに、急に居なくなったことが信じられないショックと産後の疲れで葬儀にも参列できませんでした。
 
亡くなってわかったことは、母のことをろくに知らない自分でした。古風な考えの母に対し思春期から反発ばかりしてきました。結婚、妊娠で会社を辞め、出産の数ヵ月前、大人になってから初めて母と寄り添い、穏やかな時間を持てるようになりました。
 
そして「お母さんて有り難かったなぁ。」と感謝の気持ちを持つことができ、育児、料理、仕事と家事…様々な事を教えてもらおう!とワクワクし始めた矢先でした。
 
 
人生、突然何が起きるかわからない!
 
子どもたちに伝えたいことがあるなら今、出来る時に伝えておきたい、と思い始めました。でもそれは何だろう…。
 
それは、あのバリ島の新婚旅行で体験した日々の中に存在しているという気がしました。けれど、口で説明して伝えることは難しい…。一緒に体験して見つけていくのも、これまた楽しい、そして思い出作りになるじゃない!と。
 
 
 
kumi3子連れバックパッカー
そんないくつかの想いが重なり「子連れバックパッカーの旅」が生まれたのでした。
 
 
カミーノは2010年、アジアの旅は 2000年前後の話になります。
お父さんは残念ながら、お留守番でしたが、子どもたちの写真をなにより楽しみにしていました。
 
 
フィジーABC村での食事

フィジーABC村に滞在。タロイモ、パンの実、あげパン、紅茶、素朴な食事。

 
 
 

母の子連れバックパッカーは最強の旅のスタイル!

 
旅をして気が付いたのは、母と子の子連れバックパッカーは実は最強だということです。父と母と子ども、またはカップル、添乗員とお客さんなど、グループの構成が完結していると、現地の人は話しかけてきません。
 
母と子どもだけなので、現地の人があれこれ世話を焼いて助けてくれるシーンに、たくさん恵まれました。心細いどころか、実は最強の旅のスタイル・お得な旅のスタイルだったのです。
 
お父さん抜きで不安じゃない?
女子どもで、旅するなんて怖いことない?
 
 
「夜は出歩かない」という簡単なルールと
「子どもたちと相談しながらの旅」をしていけば大丈夫!でした。
 
子どもたちの感受性は強いものです。迷った時に意見を聞くと、それはとても信頼することが出来ました。
 
フィジーで道に迷ったとき、四つ角の中央でさっぱり手掛かりが付かない私に、10歳の娘が言いました。
「あの木の葉っぱの形、覚えてる。お化けみたいだなと来るとき思ったから。こっちの道だよ。」と言うのです。
 
こんなに、四方八方が森で木、木、木だらけなのに??
そしてそれは、正しかったのです。
 
私たちは、しばしば、親と子、大人と子どもを忘れ、同じ立場になって考え、助け合いました。
 
 
 

子連れ旅日誌

 
 
その不便で、異文化と自然が満載の子連れバックパックの旅は、アジア、カミーノを含め、些細なくだらない事件から、深く考えさせられる事件まで、毎日まいにち驚くほど様々な出来事が巻き起こりました。
 
その日々のすべてを日誌に記録していました。
 
時には子どもたちが寝静まってから、真夜中の宿の洗面所で書くこともありました。それは細かい字でびっしりと書かれ、ノート10冊以上に及びます。
 
 
 
ノートの山

アジア・カミーノ子連れ旅日誌たち

 
 
そんなサンチャゴ巡礼・カミーノや、アジア子連れバックパッカーの旅を、それらノート日誌を広げつつ、写真と共に気長にあげていきます。
 
長いサイトの紹介、読んでいただきまして、有り難うございました。
 

サンティアゴ大聖堂前で集合写真モノクロ

 

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